僕らの未来  〜私たちの子供や孫たちが誇れる未来へ〜

2018年3月7日

東日本大震災と私

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3月11日で東日本大震災から7年が経ちます。今でもこの日が近づけば震災関連のニュースや特集が組まれますが、それ以外の期間ではもう震災の話をほとんど耳にすることはなくなりました。あと3年もすると大きく取り上げられること自体なくなるのではないかと懸念しています。復興が進み被災者が震災前の生活を取り戻していくことは良いことですが、戦争と同様、この経験や教訓は忘れてはいけないと強く感じます。

今回は東日本大震災に対する私の想いをお話させていただきます。
震災があったのは私が関東へ引っ越しをして2週間ほどの時でした。新しい生活に向けて新居での荷ほどきをし、生活必需品をそろえていました。新しく決まった仕事に就こうとしていた矢先のことでした。
その日はお休みで隣町に来ていました。雑居ビルの5階にいた時にズドンと大きな揺れがやって来ました。地震には慣れていても動揺してしまうほどの大きな揺れでした。避難しようと建物の非常階段に向かうと、たくさんの人が集まって外を見ていました。大きく揺れる建物や今にも落ちて来きそうな看板、コンクリートでできているとは思えないほどにしなった電柱を悲鳴交じりに皆眺めていました。
携帯電話はすぐに使えなくなり、電車も運休停止していると皆が騒ぎ出しました。これは一大事だと気付き、とにかくアパートに帰らなきゃと帰路につきました。幸いアパートまでは1駅しか離れていなかったため、歩いて30分程で帰れる距離でした。
帰路、何度も大きな余震が襲って来て、高い建物に囲まれた道では恐怖を感じながら歩きました。途中、民家のブロック塀が半分崩れているのを見たり、店の商品や沿道の物が倒れてそこら中に散乱している光景を目にしました。近所の人同士で集まって話をしている姿が多くありました。「東北が震源地」、「マグニチュード8超え」などとニュース速報から得た情報交換をしているのを聞き、これまで経験したことのない地震が起きているのだと知りました。
無事にアパートに戻り、中は食器が落ちて壊れただけでしたが、激しい揺れへの興奮と中々入ってこない情報で外は軽いパニック状態になっていました。
少ししてから実家に連絡しようとしましたが、その日は一日中携帯電話の電波が入らず連絡はできませんでした。連絡ができたのは翌々日だったと記憶しています。実家の方では2、3日の停電や断水があったものの、大きな被害がないと聞いて本当に安心しました。しかし、岩手県釜石市出身の友人は一週間近く経っても親と連絡がとれないと言って半分あきらめた様子でいました。後日、連絡がとれ無事だと知りましたが、家は津波で流されてしまい、しばらくの間どこかの施設で避難生活をしていたと聞きました。
数週間が経ち計画停電や断続的な電車の運休、余震は続いていましたが被害の全容が見えてきました。死者1万人越え、行方不明者数千人、原子力発電所の事故など、未曽有の大災害であることが分かりました。
その頃から震災ボランティアの募集やニュースが流れるようになっていました。震災当初からすぐに東北にかけつけたい気持ちはありました。同じ東北の人として何かしたいと思っていました。しかし、就いて間もない仕事で、休みを取ってボランティアに行くとは言い出せず、結局参加できたのは8月になってからでした。その間、どうしてこのタイミングで私一人が東北を抜け出して関東に来てしまったんだと自責の念に駆られていました。実際のところ、私一人がいてもいなくても何も変わらなかったでしょうし、何もできなかったと思います。それでも、一緒に苦しんだり誰かを励ますことはできたんじゃないかと、自分でもよく分からないほどずっと考えていました。
ボランティアに出発する日、食料を必要としている人がまだいるんじゃないかと思い、貯蔵していたわずかな食料をカバンいっぱいに詰め込み、新宿から夜行バスに乗りました。
翌朝、宮城県沿岸のボランティアセンターに到着しました。ボランティアはその日の要請と参加者数とのマッチングが行われて派遣されました。私たちは海が目の前に広がる平らな土地でバスを降ろされました。数か月前まで民家が辺り一面に建っていたことをうかがわせる家の基礎部分が残っただだっ広い広場と化した場所でした。すでに津波で倒壊した建物や瓦礫は撤去されており、ほとんど何も残っていませんでしたが、それでもそこに残った小さなごみを拾うという仕事でした。小さなごみを一日中広いながら、「こんな小さなごみを拾って本当に誰かの役に立てるのか」、「これをしたところでもうここには民家が戻ることはない」、「私にできることはこんなことだけなのだろうか」と様々な考えが頭を巡っていました。
今になって思うと、その日のボランティアの人数よりも必要とされている要請が少なかったために、振り分けきれなかった私たちはそれほど必要でもない箇所に充てられたのだと思います。どんな形でもボランティアに参加できたことは良かった思いますが、もっと苦しまれている人々のために何かできなかったのかと悔しい気持ちが湧いてきました。
その後もボランティアに参加したり支援物資を送る活動に携わったりしました。できるだけ東北の物産や商品を買うようにしましたし、有効な支援方法がないかをよく調べるようにもなりました。震災の被害から考えると私個人がしてきたことは何の助けにもならないほどの微々たるものだと思います。それでも、関東に出てきて東北への愛を再認識しましたし、東北のために何かしたいと強く思うようにもなりました。関東から秋田に戻って来る決意に至ったのも、この経験がひとつのきっかけになっているのだと思います。

震災から7年が経ちます。ボランティアや直接支援をすることはなくなりましたが、私たちが震災の被害者のためにできることはまだたくさんあると思います。それをこの地でやっていきたいと思います。ふるさとを守りたい。それは横手であっても秋田であっても東北であっても変わりません。みんな私の大事なふるさとなのです。

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